長安古寨
由来:本ステーション  発表期日:2017/08/10

長安古寨は三面が谷間に囲まれ、一面が大通りを通して外部の村と繋ぎ、陸地の半島に成り立っています。「上李河村侯张线」と言う所の南側の西の方に位置しており、又「鄭县县衙」(「县衙」は中国古代の政府みたいなところ)とも呼ばれています。唐の時代天宝十四年(紀元755年)安禄山が長安に攻め入りました。唐の玄宗が皇室の子孫を連れて蜀(今の四川)を向かって遷移を行いました。彼の13番目の息子である李璥は西に行きたくなく、安禄山を潰して、失った土地を取ろうと志しているため、自分の一家を連れて汴州(今の開封一帯)に向かって逃亡しました。しかし、汴州には、反乱軍が’厳しく厳守していたせい、転々してこの所まで辿り付きました。「汴哀王」と称される李璥はここの素朴な民俗と人々が安らかに暮らしている様子を見て、そして、この寨は三面水に囲まれ、亀が水を飲んでいるような地勢に呈しているので、占いから見れば、極めていいところだと思っています。そこで、ここで暮らすように決めました。それと同時に、反乱軍を抵抗するために防御と蓄積のための寨を作って、「長安寨」を名づけて、兵士を募集し唐王朝を回復しようと準備しつつありました。彼は人たちを率いて労作し、水利施設を作り、等しました。後、「安史の乱」が治まりました。李璥は地元の百姓と深い友情を結びました。それで、豊かで快適な生活のため朝廷に戻りたくなく、ここで最後まで居続けることになりました。そして、自分の子孫に名を隠し、地元の人たちの福祉を求めようと要求させたと言います。その子孫たちは「長安寨」で「李氏祠堂」を立てました。時代が変化しつつあるのに対して、「長安寨」はずっと安定的で繁栄しつつあり、規模も拡大しつつあります。1938年5月13日、日本軍は初めて鄭州を爆撃し中央平原地域に侵入し始めました。当時、国民党政府は「鄭県」(当時の名前)の政府所在地をここに移したから、又「郑县县衙」と呼びます。抗日戦争の間、国民政府はここで塹壕を掘り、銃眼を備えた望楼を造りました。その望楼が6個作り上げ、そして高さ3メートルで厚さ2メートルの防御のための壁を造ったそうです。当時、国民政府はまた、その百里範囲内に槐樹 とサイカチをたくさん植え、隠蔽作戦のためでした。今の槐樹の年齢は平均500年以上あり、その中の一本はあそこの人々に「槐の神」と尊称されています。その古い「長安寨」は戦争、荒廃や保護の不届き等と言った様々の原因により、部分的に破壊されていました。現在、二七区政府の呼びかけに応じて、修復作業は2017年の初め頃既に始まっています。

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